トップページ » クラス会報告

クラス会報告

半世紀を越えて、私たちは

2010年02月24日(水)

福井俊郎(新制1回)


 教育改革の荒波のなかで育った私たちが、卒業して丁度50年経ちました。これまでには毎年1回クラス会を開いてきましたが、去る5月6日に新阪急ホテルで、数学科・物理学科・生物学科と一緒になって「卒業50周年記念合同クラス会」を開きました。卒業 してはじめてのことでしたが、化学科だけで27名、全部で55名参加という盛会でした。 胸の名札を見てから「あ一君か」という始末でしたが、直ぐに懐かしい想いに浸ることができました。
 翌日からは、化学科卒業の19名で木曽路旅行に出かけました。 馬込の旅籠で一泊して、翌日は生憎の雨。「木曽路には雨がよく似合う」などと言いながら、中山道を妻寵まで 1時間ほど歩きました。さらに、記念クラス会誌「半世紀を越えて」をつくって、お世話になった先生方や関係者にも配布しました。
 私たちのクラスで、これまでに亡くなったのは6名ですが、名簿を整理してみますと、学科によって物故者の割合が大きく違うことに気がつきました。数学科38%、物理学科24%、化学科11%、生物学科7%でした。何か理由があるのでしょうか。同じようなことは他の学年でもみられるのでしょうか。お分かりでしたらお知らせください。

post by ホームページ管理 |

今井滋郎 (新制4回金子研)


 前年の富士山麓周遊につづいて6回目の一泊旅行は、10月23、24日に伊勢志摩に出掛けた。  関東、九州からも3名参加の総勢15名は、まず志摩の賢島に午後集合し「エスパーニャクルーズ」のエスペランサ号で英虞湾を一周した。ついで合歓の郷の保養地のサントリー・サンロッジにチェックインし、夕方の「合歓の郷」園内を散策したり、パターゴルフに興じたりし、展望の効いた「潮騒の湯」で体をほぐしたあとサンロッジで宴会。  活け造りの舟には、10月解禁の伊勢えびやアワビなど志摩ならではの美味が満載。酒量はほどほど、TVの巨神戦延長でなかなか床に就けない。
 翌朝は、超水族館を標榜する鳥羽水族館から始まる。目玉のジュゴンの大水槽やイルカショウを楽しんだ後、インターネットで選んで予約しておいた店では鳥羽湾で獲れたての魚に舌鼓。舌もお腹も満足したグループは、次に伊勢志摩スカイラインを通って内宮へ。バスは日に2本の定期便ながら他に客のいない専有状態で、ツアーの最終地に向かった。  お伊勢さんでは70路の年並みに殊勝らしく拍手を打ち、大杉木立の中にしばし身を置いたあと外宮に廻り、2日間とも快晴に恵まれたツアーは宇治山田で解散となった。
今回のツアーの特徴の一つは、大阪、名古屋からの近鉄特急、域内電車・バス、施設の入場、乗船すべてフリーパスの9,300円のパスポート“まわりゃんせ”を各人で買って参加してもらい、マイクロバスを使わず費用が大幅に節約できたこと。二つ目は、3人の世話人が始めに2回集まっただけで、あとは当日までの4カ月間に百通を超えるE-メールで相談し、時刻表、地図、店の検索も全部パソコンの世話になり、下見もなしのインターネット企画であったことである。6割の人がアドレスを持ち、アンケートから案内までの郵送費もセーブされ、70才を超えた集団ながら時代を反映したツアーとなった。

post by ホームページ管理 |

高橋政司(新制化6回)


 2003年10月13~14日、大阪の河内長野で第17回目の同期会を催行しました。このところ、関東と関西とが交互に世話役を引き受け、年1回開催という方式が、ほぼ定着しています。今回は、関西の竹内さんが主担当幹事となって、計画を立案され推進されたもので、河内長野駅近くの「エルサンティ河内長野」を宿拍場所とし、関西在住の方々にご協力いただき、参加者は5台の車に分乗して近隣を観光いたしました。参加したのは、鬼籍に入られた方を除く同期生33名中の21名で、咋年の鎌倉での開催時と同じ人数でした。
 13日、2時に「エルサンティ河内長野」に集合し、まず天野山金剛寺を参観。ここは女人高野、あるいは南北朝時代に南北両朝が同じ時同じ場所に行在所をおいたことで知られているお寺です。境内の摩尼院では楠木正成の軍旗や正行が切腹しようとした櫻井の駅の「子別れの短刀」を見ることができました。次に河内長野の水源である滝畑ダムを見学し、磨崖佛を見るためダムの堰堤へ向かおうとしたところ、残念ながら4時が門限で入れませんでした。
 温泉に浸って疲れを癒した後、タ方からは例によって例のごとく、近況報告や懐古談など宴会の時間帯だけでは到底収まりきらず、寝室に席を移し時の経つのも忘れて歓談いたしました。
 翌14日、車を連ねて檎尾山観心寺、楠妣庵、楠公生誕地、建水分神社、寄手塚・身方塚を回りました。観心寺は楠木一族に関係するお寺で正成の首塚があり、楠妣庵は正成夫人の余生を送った場所、建水分神社は楠木家の守護神社、寄手塚・身方塚は正成が建てた敵と味方の戦死者の墓、というわけで、楠木正成ゆかりの場所巡りです。その終わりに、あいにくと天気がくずれだした雨の中、西行法師が没した弘川寺を訪れ、辞世の句「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の歌碑や西行塚を眺め、その没年73歳に我々もかなり近づいてきたことに無常を感じさせられました。
 昼食後、来年の再会を約し解散しました。例年出席していた2~3の会員の不参加の理由として、体調不調のためとの近況を伺いましたが、体調を回復されて、次回は是非元気に参加されることを期待しています。
 なお、“ばけだす”という我々同期生が原稿を持ち寄って作っている文集は、本年3月第5号を発行しました。年々ページ数が増しており、寄稿者各人の文才に鷲かされている次第です。来春第6号の刊行も確実と思われます。

post by ホームページ管理 |

新制7回生同窓会報告

2010年02月24日(水)

蒲池幹治(新制7回)


 昭和34年化学科卒業生のクラス会は二年毎におこなっているが、今回は、11月13-14日、下西康嗣(長浜バイオ大学学長)と山本正夫(東大阪大学学長)が世話人となり、鈴鹿山麓にある湯の山温泉にて開催した。出席者は東は東京、西は福岡から15名が参加した。出席率は37.5%で、参加数は例年に比べて若干少なかったが、ウィークデイの開催であったので、現職で働いている人やボランチア活動中の人の参加がなかった事が一因と考えられる。
 同窓会は6時から始った。学生時代の想い出から今後の生き方まで、話は尽きず、2時間が瞬く間に過ぎ去った感じであった。再会した当初は、お互いの変化を意識するが、十分もすると、中之島時代の姿が甦り、回顧談義に花が咲き、旧交を暖める良い機会になっていた。二年毎に開くタイムカプセルである。翌日は、午前中、鈴鹿国定公園の御在所岳にケーブルで登り秋の紅葉(?)や眺望を楽しんだ後、午後は、同級生の加藤郁之進君が社長をしているタカラバイオ株式会社・ドラゴンジェノミックス遺伝子解析センターを見学し、バイオサイエンスの発展に深い感動を憶えながら、次回は福井で行う事を約束して帰路についた。

post by ホームページ管理 |

新制化30回生同窓会報告

2010年02月24日(水)

大山 浩(新制化30回)


 新制化30回のクラス会は、7月26-27日、田中君のお世話で、和歌山県湯浅の花王研修センターにて開催した(3年越しの約束にしたがって)。出席は(足達、上の薗、大浦、大山、島本、柴田、谷、中地、竹本(西川)、濱田、深瀬、水元、翠、乗岡(薮本)、横山、若林、田中)の17名。各自の都合にあわせて現地集合。湯浅駅を降りると、5~6名と鉢合わせ。タクシー相乗りで現地へ。長らく同窓会をさぼっていた私には、中には20年ぶりに見る人も。見間違える程ずいぶんと額の広くなった人(T君)も中にはいましたが、皆見覚えのある懐かしい顔です。夕食までの時間希望者はテニスを行いました。皆さん真面目にテニスクラブで腕を磨いておられる様子でレベルの高さに非常に驚きました。日頃の鍛錬の差が歴然と表れる微妙な年令でしょうか。夕方、大広間にて夕食・宴会。途中、ラウンジより美しい夕日を眺めました。夕食後はラウンジで2次会・さらに談話室で3次会を行い、深夜まで、近況報告・仕事の話・想い出話等と話題に花を咲かせました。何らかの形で皆さんが化学とかかわっていることが分かり、とてもうれしく思われました。中には、さらにマージャンで3時過ぎまで起きていた人もいました。
 翌朝早く、谷君、翠君、水元君、田中君のゴルフ4人組は、仕事のある柴田君を、湯浅駅に送り届けた後、一路、海南高原カントリークラブへ。(谷君のぶっちぎりの優勝(スコアは90台)で他の3人は似たり寄ったりの3桁スコアでした。)他の人は(寝坊したF君を残して)、朝食後、2台の車に分乗して湯浅駅へ。途中、道に迷って農道を快調に進み、迷路に突入。おかげで島本君の車が小破。でも楽しい想い出となりました。
 湯浅駅に着いた後、一部の人は醤油蔵の見学。その後、各自帰路に着いた。
 次回は3年後に足達君のお世話で関東で行われる予定です。今年参加できなかった人は次回はぜひ参加して下さい。末永く本会が続くことを願ってやみません。
 最後に、同期の櫛田隆弘君が11/16(日)に急逝されました。まじめに化学とかかわってきた櫛田君の輝かしい軌跡を思うと、とても残念でなりません。あらためてご冥福をお祈りいたします。

post by ホームページ管理 |

旧制化学科三回生近況

2010年02月24日(水)
関 集三(旧制3回)

 昨年11月24日、同期生の勝村龍雄さん(ダイソーおよび日東化成両会社相談役)が91歳で天寿を全うし逝去され、昨年12月18日には、お別れの会が大阪リーガロイヤルホテルで盛大に執り行われました。そもそも、昭和10年阪大化学科入学時は、19名でしたが、今日は老生と吉田統一さんの2名となり、吉田さんとは音信不通で連絡がとれない状態ですので、結局このニュースを執筆している老生一名の、この報告を致しておる始末です。この様な有様で、誠に心寂しい限りでおります。
 老生は、昨春5月25日、阪大時代の研究室卒業の皆様を中心とした、米寿祝賀会を催していただき、誠に有難いことでした。阪大卒業後、既に65年目になりますが、月1回の通院と毎週1回の腰痛リハビリをしてとにかく体調維持につとめ、毎月1回上京の、日本学士院例会出席も18年目となりました。阪大定年退官以来、山田科学振興財団の役員をつとめ、毎月1回の役員会出席も25年目になりました。この財団の会合では、化学科名誉教授の皆様にもお会いする機会にめぐまれ、有難いことです。
 明年から、国立大学の独立法人化が施行され、阪大も大きな衣替えをされる由、一昨々年10月に、化学高分子新築落成式にお招きいただいて既に3年目、概観と共に内容の新しい姿を拝見したいと念願しております。このたび新しい永契会会長に旧制19回生の渡辺英二様を迎えられる由、本会の伝統のもと益々のご発展をお祈り致します。
 
post by ホームページ管理 |

ニューズレター原稿の事

2010年02月24日(水)

河本於兎彦(旧制5回)


 事務局より近況に就いて書いて欲しいとのご要求がありましたが、85才を超えると、夫々肉体的に故障が出来、集合して食事する事が不可能となり、一昨年の会合で一応中止する事にし、事後は年一回、各人からハガキで近況を集め、世話役が編集し、各人に配付する事にしました。生存者は以下の通り、卒業時は20名。
 近況要約すると、順不同、敬称略。
木村 茂:最長老、景勝の地に住み、多くのヘルパーに囲まれ元気、時々大阪に出て、旧友と談笑とか。
米本義之:一人だけ関東住まい、近年腰を傷め、長旅不可能。
萩原信衛:全く元気、奥さんと二人、月に一回、三、四日の国内旅行を楽しんでいる由。
於勢真輔:腰痛を抱えているが元気。
大塚英夫:いつも返事はないが、電話では元気。
鈴木由辰:実験事故のためか、一度もクラス会出席なし、但し、近況は必ず返事あり。
河本於兎彦:訓練をサボったせいか、足の調子悪く、単独外出不可、改めてリハビリ検討中。

post by ホームページ管理 |

加藤俊二(旧制9回)


 昨年11月5・6の両日、浜名湖畔館山寺温泉でクラス会を開きました。私たちのクラスは昭和18年9月に卒業しましたが、その時22名いた級友も今では半数の11名となり、またその半分は何らかの故障をかかえていて、出席したのは6名になりました。しかし、出席者全員は80才を越えているのに非常に若々しく、悠々自適の生活を楽しんでおり、まだ当分はクラス会を続けられそうです。

post by ホームページ管理 |

旧制11回生のクラス会の報告

2010年02月24日(水)

松井邦夫(旧制11回)


 平成14年5月19日午後1時半より、リーガロイヤルホテルのスーパーバイキングで本年度のクラス会を行った。出席者は在米の中本一男君を加えて、小竹宏志、中田弘、松井邦夫、山崎太郎、米田速水の6名であった。ビールを飲みながら約1時間半、更にロビーでアイスクリームで1時間の歓談。話題は級友の近況、日米の社会情勢、健康状態、最後は葬式と遺骨に及んだのは平均年齢80歳の致す所か。記念撮影。解散後中田、山崎の両君は所用で帰宅。その他の者は理学部の跡地、大阪市科学館を訪れて、昔を懐かしむ。展示は物理学が主で、化学が僅かなのを嘆くも、旧大阪市立電気科学館の歴史の致すところか。その後、昔通学で歩いた道、阪大病院、出入橋、中央郵便局と大阪市の変貌に驚きながら大阪駅まで。再会を約して解散。
 今永勇二郎、桃谷政順の両君は出席を予定しながら健康上の理由で欠席されたのは残念であった。

post by ホームページ管理 |

12回生クラス会

2010年02月24日(水)

小佐井興一,森 泰(旧制12回)


 今年は天神祭前より猛暑が続き心配でしたが、秋の彼岸を過ぎると涼しく開催当日の11月20日は晴天に恵まれ三々五々会場の「天津閣」へ集まり総勢7名、一同の健康を祝して乾杯、天津閣での開催に至った経緯を説明し、お互いの動静、今は亡き友人、最近の話題等に談論風発、久し振りに参加の篠崎君より東京勢の情報、特に石塚君が母親に続いて奥様を亡くされ、それにもめげず頑張り、最近人工ダイアモンドが中国産に押され、何か新しい物を作り出さないと自分の会社が潰れると青年の様に一番張り切っておられるとの報告を受け、頼もしく思うと共に我等も逆に励まされた次第です。遠方から来られる人達の事を思うと新幹線の駅近くに会場を移す方が良いのではとの提案を受けて来年は参加者も増える事を期待し、新大阪駅の近くに新会場を探す事にしました。雑談を重ねている内に、欠席の芝君より電話が入り「関西日蘭協会の会合が終わり次第クラス会に駆け付ける予定でしたが、オランダの方を案内せねばならず行けませんので残念ですが皆様に宜しく」との言葉を聞き解散しました。

post by ホームページ管理 |