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クラス会報告

井畑敏一(新制6回化学)


 私達新制第6回理学部化学科卒業生は"ばけだすの会"という名前で同人雑誌を発行する一方、毎年世話役を決めて会合を持っている。
今年は永井宏氏と和田猛朗氏の世話で、「木曽の御嶽山麓の開田高原」に集合した。参加者は外国在住の2名を含めて現会員32名の中で19名が出席するという盛会裏に開催する事ができたのは同窓生諸民の協力の賜物であると心から感謝している次第です。
初日の5月19日は開田高原の"ひゅって・くらいす"にタ刻の6時に集合したが、ビールで乾杯の後に4人の物故者を偲んで黙祷して集会が始まった。"ひゅって・くらいす"の女主人の心のこもった料理に舌つづみをうち満腹になった後に、各自の近況報告を中心とした挨拶があった。年を重ねたせいか、学生時代に比べると随分話が上手になったが、昔の片鱗が少し残っているのが楽しかった。
2日目は雨天の中、"ひゅって・くらいす"のマイクロバスで木曽福島に出て、薮原で木曽川を渡り、西に進んで奈川渡を経由して上高地に入った。バスから見る大正池は、池中の立ち枯れの木の数も少なくなくなり、昔ほどは追力が無くなっていた。台風の接近で心配していた天気は会員の精進の良さを反映して奇跡的に晴れ間が見え、小雨の中を霧に包まれた穂高連蜂や新緑の化粧榔を眺めながら梓川の清流沿いに散策した。殆どの人は河童橋から梓川を遡って往復6キロの明神池に向かった。
夜は食事の後に、若かりし頃の話や、上高地の感想等で時間を過ごしたが、吉村一平氏のピアノ伴奏による思い出の歌の合唱で、盛り上がり時間の経つのも忘れた。
22日の朝は徐々に晴れ上がった空の下で、1年後の秩父での再開を約して散会し、帰途についた。

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へさき康彦(新制高分子学科5回生)


 新制化学科15回生、高分子学科5回生は60歳前後の年代となり、これを機に2004年6月に還暦お祝いの同窓会を行った。これまで関西地区、関東地区で時々ローカルな集まりはあったが、今回6年振りに全国規模の会を計画、場所も東京と大阪の中間、藤枝市で一泊の同窓会となった。主に東海地区に在住する同窓生が幹事となり、全国に呼びかけた結果、28人の参加者を得ることができた。特筆すべきは、米国に在住するNIHの水内清君とオクラホマMCの古武弥成君が同窓会のためにわざわざ来日してくれたことである。
当日、夕方に三々五々参集、卒業以来初めての参加者もいたが、すぐに学生時代の雰囲気にもどり、あちこちで話の輪が広がった。既に仕事をリタイアした人、これからの人など様々であったが、当日は2部構成とし、第1部で、伊藤祥輔君司会の元、地元在住の渡辺正治君が「これからの楽しい定年生活」というテーマで趣味の茶作りを含めた講演を行い、第2部の宴会へと移った。会食をしながらの各人近況報告では質問と野次で大いに盛り上がり、時間の経過と共にアルコール量も増加、小さな輪があちこちに出来、各々談笑に花が咲いた。喫茶室に場所を移してからも、話が尽きず、会は深夜にまで及んだ。
翌朝、皆寝不足気味で朝食、朝風呂に入りながら、学生時代に戻った気分とは裏腹に、改めて歳を取ったことを実感した。名残は尽きなかったが、次回大阪での開催と再開を期して全員帰路についた。
後日、幹事が中心となり本会のアルバムを編集、田辺泰弘君がPCを駆使して全員分を作成、参加者に配布され好評を博した。                                           (新制高分子学科5回生 へさき康彦記)

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江口太郎


 われわれの学年は在学中いろいろあったので、まとまりがよいクラスとは言えないかもしれないが、2年前から蛋白研の相本が幹事を務めて、気楽な懇親会を開催している。
 今年で3回目になり、8月7日(土)うだるような暑さの午後3:30、待兼山キャンパスのイ号館に17名が集合した。幹事の計らいで江口が勤務する小さな博物館の宣伝をさせて頂いた。同級生とはいいもので、たちどころに率直な意見を聞けることになる。「エッ、大阪大学総合学術博物館ってこれだけ!」「この将来計画って、ホンマに実現すんのか?」「なに、この部屋の改装に○○万円かかったって。大学やなー、民間だったら1/4で済むんとちゃうか」−−−と言いたい放題である。おわびに博物館パンフレット、『マチカネワニ資料集』、第3回企画展パンフレットをお土産に配り、機嫌を直してもらって記念撮影した(写真1前列左から;武田、西岡、南井、太和田、森口、錦田:後列左から;三谷、湯通堂、石原、正木、江口、松山、中尾、柴田、奥田、祢宜、相本)。
 2次会は場所を千里中央の“北海道”に移し、午後5時前からビールを飲み始めた。ここで、富山から金森が駆けつけ、馬場も合流した。中年のおっさんというよりも既に「初老」の集団であるが、よく飲み、よくしゃべった(写真2)。いろいろ立場の違いはあれど、「最後のご奉公」に近い年代特有の話題が多くなるのは当然であろう。私のまわりでは、薬や化学製品の分野における世界の中の日本の位置が酒の肴になっていた。宴たけなわの頃に最後の参加者、笠井が現れた。最近の大学関係者は私に限らず宣伝がお好きなようで、国際会議の広報活動に努めていた。結局、20名(クラスの約半数)が集まったことになり、これもやはり歳のせいであろうか。
 当日は、サッカーのアジアカップ決勝戦の日で、その様子が気になる連中もおり、午後8時頃に来年の再会を約しておひらきにした。(文責:江口太郎)

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任田康夫


 昭和42年度入学の化学科同窓会が、平成16年4月24日(土)午後4時から8時まで新大阪シティプラザで開かれた。今回の幹事は辻喜良君と任田が務めた.二年ぶりの開催とあって、東は遙か鹿島(坂本憲俊君)から、西は福岡(唐崎裕治君)や愛媛(岡田真理子さん)まで遠方からの参加者も多数あり、20名の参加者で賑やかな会となった。今回は、定期的な同窓会が隔年ごとに開かれるようになってから3回目である。
 卒業後、初めて顔を会わせるメンバーも多く、始めのうちは戸惑いのあった参加者も、近況報告や昔の暴露話が進むにつれ、いつしか38年前にタイムスリップし、旧交を温めるとともに、娘の結婚相手の悩みなど共通の話題を発見するなど、楽しいひと時を過ごした。
 今回は辻君の発案で、事前に同窓会名の候補が集められ、当日、投票で決める手はずになっていた。ところが、当日の多くの参加者の挨拶の中で、はからずも我々のクラスの二人の才女が本同窓会の多くの参加者のお目当てであることが判明した。わいわいと言っているうちに、同窓会の名前は、事前に集められたものは全て却下され、我々の永遠のマドンナの旧姓の頭文字を頂いて「杉富会(すぎとみかい)」と決定した。二人の毎回の出席を願うと共に、元男子学生達の出席も促進する、一石二鳥の名案となった。
 その他の趣向として、稲葉章・常任幹事から提供された阪大グッズなどの豪華景品(平成16年度・銀杏祭ポスター、阪大ネーム入りボールペン、栞等)が当たる福引が行われた。予定の4時間は、あっという間に過ぎ去り、次期幹事の入江好夫君と田村光久君が二年後の4月に「杉富会」での再会を約してお開きとなった。(任田康夫)

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池中一裕(昭和50年化学科卒)


 昨年12月、昭和50年化学科卒のミニ同窓会が開かれた。10月に横浜で、倉野、土井、森山、水野が集まって飲んだときに、今度は石橋で飲もうということになり、今城君が世話してくれたのだ。懐かしい石橋駅前に集まったのは、関西在住の今城(第一サントリー)、岩佐(沢井製薬)、大須賀(ダイソー)、田辺(小児科医)、三宅(産総研)と、分子生物学会で関西に来ていた森山(名市大)、水野(東北大)の7人だけだったが、卒業以来はじめて会う顔ぶれもあり、大いに盛り上がった。卒業後29年の歳月が流れ、容貌(主に頭髪)の変化著しいものが約3名いたが(写真参照)、そちらに属する私はなぜかホッとして、大須賀、田辺両君に強い親近感を感じたのだった。学生時代の思い出や、中川先生、千原先生など昔習った先生の思い出話で盛り上がったが、特に、北大助手から小児科医に転身した田辺君が、52歳にして20歳近くも年下の女性と最近結婚したということが分かり、皆でいろいろ追求するとともに新婚を祝して乾杯した。1、2次会の後、最後は豊中の岩佐邸にまで全員で押し掛けて、また騒いだ(岩佐君、申し訳ない)。次回は卒後30周年にあたるので、ミニ同窓会ではなく、是非多くの人が集まる大同窓会にしようという話になった。化学科昭和50年卒業あるいは昭和46年入学の人で同窓会の連絡のいっていない人は今城君まで連絡してください。メールアドレスは、imajo@sea.plala.orjpです。(文責:水野健作)

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旧制化学科3回生近況報告

2010年02月24日(水)

関 集三(旧制3回)


 私共は卒業時には19名でしたが、現在は吉田純一さんと小生の僅か2名となりました。吉田さんとは前回は音信不通でしたが、今回は幸い御子息の奥様と電話連絡がとれ、吉田さんは先年入院中でしたがその後退院、現在は通院中で、年令相応の健康を保持されていることが明らかになりました。本年卆寿を迎えた老生より2才年上で91才の長寿を保っておられることが判り安心いたしました。
その様な次第勝手ながら老生の近況のみ報告いたします。卒業後66年目、一応体調維持につとめ、毎月1回上京の日本学士院例会出席も19年目、山田財団役員会出席も(最近は隔月位)26年目となりました。
 本年1月5日の阪大理・化学科の新年懇親会に出席(名誉教授14名、現役教授20名)し、学科の近況を教室主任の笠井教授よりいただきました。その後、本年度から発足する国立大学独立法人化について現理学部長の楠本教授より、又、昨年発足した「21世紀COEプログラム:自然共生化学の創世」*について責任者の原田教授から、それぞれ、くわしい現状報告をいただきました。
私事にわたり恐縮ですが、老生の阪大時代の研究室時代に学位をとりその後化学科の名誉教授になられた方々は、本年退官された徂徠教授と松尾教授をふくめ6名となられ、感慨ひとしおです。
又、私共が創設に中心的役割をした「日本熱測定学会」は昨年度、第30回記念の学会記念行事をいただき、一方、この学会創立の基盤となった「熱測定討論会」は本年、第40回を迎え(第1回は阪大開催)慶賀の至りと喜んでおります。皆様のお陰で化学教室にみとめられた研究センター「分子熱力学センター」も25年目を迎え改めて御礼申し上げます。
*永契会Newsletters, No, 16(2003)に概要が説明されている。

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クラス会員の動向

2010年02月24日(水)

河本於兎彦(旧制5回)


 一応、名簿順に年賀状を頼りに報告します。 大塚英夫君は昨年6月に逝去、松村栄三郎君は既にご報告通り一昨年逝去されています。
他の生存者、於勢君、木村君、鈴木君、荻原君、米本君は一応元気。幹事役の河本は介護保険の世話になりながら元気です。

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旧制11回生報告

2010年02月24日(水)

幹事 松井邦夫(旧制11回)


 10月14-16日にかけて定例の旅行。参加者中田弘君、永田君、松井邦夫の3名。他に予定していた今永勇二郎君、山崎太郎君は体調不調のため残念ながら中止。11時金沢駅集合、昼食、石川近代文学館、金沢城の見学。夜、永田君が合流、料亭「壽屋」でタ食。金沢セントラルホテルで宿泊。翌朝田中君は仕事のため帰阪。観光タクシーで内灘公園、宇ノ気町西田記念哲学館、千里浜を経て巌門で昼食、永田君はスケッチ、妙成寺を経て金沢布立安江金箔工芸館を見学。翌日成巽閣、石川県立美衛館を見学、永田君に絵画の見方を聞く。昼食後大樋美術館、加賀友禅伝統産業会館の見学。ここで松井は帰阪。永田君は続けて九谷焼、輪島塗りの店を見学し、更に一泊して帰京。自由なクラス旅行であった。我々の級友の平均年齢は80歳。多くは何らかの病気をもっており、集まっての旅行もままならぬ年齢に達した。再来年が卒業60年であるが、記念のクラス会は早い目に行うのがよいかも知れない。

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永契17回クラス会のこと

2010年02月24日(水)

西海四郎(旧制17回)


 2003年6月16日の夕方、JR大津駅に集合、大津市ニホの浜にあるホテル・ピア・プラザに行く。集まったメンバーは次のとおり、敬称略:浅井・有元・安藤・井上・大須賀・寒河・笹田・田島・中村・西海・八田・林・村松。当番は、浅井と西海。ここでの夕食は正式に頂く、このことはホテルの規則どおり。
その後、入浴してから談話室に集まる。少人数だから都合がよい。テーブルをかこんで談話となる。何となく習慣になってしまったが、一人が話題提供の形で話をする。今回は浅井が’三分法について’という題で話した。その内容は例えば滑らかさの表現で視覚的・視覚的で触覚的・触覚的と三通りある、また同じ’開け’という動詞の後に’ると、れば、たら’という助詞をつけると確定的・不確定的・意外性というような話。中学時代の国語文法を思い出す。
それから後はそれぞれが勝手に話し出して、まあ賑やかなこと。このホテルは持ち込み自由なので、幹事は予め持ち込んでおいたが、これは正解であった。
翌朝は小雨、用意した複数の観光コースは回れない。雨の上がるのを待ちきれずに半数は帰っていった。やがて雨が上がったので数人は日吉神社へ。これは正解で、空気は潤い、敷石は洗われて美しい、松の緑も鮮やか、歩くのは私たちだけという好条件。ゆっくり歩いて爽やかさを存分に味わった。
この会は毎年、関東・関西のどちらかで開いている。参加者は皆、日本人の平均寿命を超えた。それにしては元気である。恩師、村橋先生はある新年会で、健康法として血行をよくすることを挙げられた。皆さん試みられたら如何?

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旧制18回生クラス会

2010年02月24日(水)

花房昭靜(旧制18回)


 私達は、1952年春の卒業であり、一昨年はその50周年に当り、大阪で記念の会を催し、12名が集って祝いました。その時翌年は広島で集まろうということになり、私が世話役を仰せつかりました。そこで昨年は、安芸の宮島で錦繍を賞でようと、11月10日にその対岸の安芸グランドホテルに宿泊し、11日に厳島神社などを観光することにしました。参加予定はもっと多かったのですが、体調の不良や所用のため来れなくなった人があり、参加は7名となりました。(写真、左から、前列、大塚、近松、清川、後列、筆者、栗岡、濱田、早野の諸氏)
それぞれに広島市内の見学をし、また、旧海軍の学校に在学していた方々は、江田島の旧兵学校や徳山の特攻魚雷「回天」記念館などを訪れた後、ホテルに夕刻集合しました。夕食会では、一室を借り切って、酒どころ広島の各種銘酒を嗜みながら、学生時代を懐しみ、現役生活を回想し、世相を批評して将来を展望するなど、談論風発し誠に楽しい宴席でした。部屋に戻っても盤上で黒白を競うなど、深夜まで賑やかに過ごしました。
翌朝、JR連絡船に乗り朱塗りの有名な大鳥居(明治8年建立、高さ16m)の前を通って宮島に渡りました。そこは、昔日本三景の一つに挙げられ、今世界文化遺産に登録されている史跡名勝の地です。島では、観光協会の美人ガイドの久保河内さんの出迎えを受け、その説明を聞きながら1時間余り散策しました。説明の一部は次のようなものです。この島は、神を斉く(いつく、身を清めて神を祭る)島であるということから、伊都岐島とか厳島と呼ばれていて、宮島になったのは比較的新しい。島そのものがご神体でもあって、墓はつくれない。厳島神社の杜殿や塔など20棟のうち6棟が国宝である。祭神は女性の3柱であって、回廊に沿った客殿に男性の神5柱が祭られている。本殿と大鳥居の距離は、108間(ケン)であり、各所に佛教思想がとり入れられている。本殿前の高舞台で舞楽が演じられるが、四天王寺の舞楽と関連が深い。その舞台の左右の狛犬には雌雄の別があからさまに示されている。数年前から春秋の大潮の満潮時には床上まで潮が上り、回廊の床板が浮き上る。などなど。
ガイドさんと別れた後、弥山の山麓を大聖院から紅葉谷へと進みましたが、残念なことに、前月に寒い日があり楓の葉の多くが紅葉する前に枯れ落ちて、もみじ狩りと洒落ることはできませんでした。五重塔、千疊閣、古い町の中、土産物商店街などを見学し、「かき丼」の書食をすませて、JR宮島口へ戻り、思い出を胸に各自家路につき、解散しました。
私たちクラスの会員には、今でも何人かは専門分野での研究所を開設していたり、専門の著作活動を盛に行っています。そのほか、大原君は以前に紫綬褒章と立派な勲章をうけておられますが、昨年には岡田君が学士院賞を受けられました。誠におめでたいことであります。なお、クラス会は本年度大阪で開く予定になっています。

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